村上春樹風ナンパ日記『綺麗なゴリラとハードボイルド・ワンダーチンコ』
僕は戦場に出たことが無い。
閃光が絶えず炸裂し、地面を揺るがす轟音が鳴り響いていても、ここは戦場ではない。
これは音楽だ。
じゃあ、音楽は戦争ではないのか?
かつてジミ・ヘンドリクスとその仲間たちは、ベトナムの密林で鳴り響いていた空爆と銃声の音楽をニューヨーク郊外の農場で再現し、二名の戦死者を出した。
半世紀後の東京でも、轟音は鳴り響いている。
自動小銃をギターに持ち替えたヒッピー達は、今では無数の計器やダイヤル、モニター、通信機を配したブースの中から音楽を奏でる。
それはまるで、ドローンの操縦席でコカ・コーラを飲みながらからアフガニスタンの空を支配するように。
顔なじみのDJが空爆を終え、コックピットから出てくる。
「よう、Ed。お前今日もナンパしにいくんか?」
僕は頷く。かつて綺麗なゴリラは言った。
彼女たちは何かを求めていて、俺はその何かを彼女たちに与えることができるんだよ。と。
「よーやるよなー。デリ呼べば好きな時に好きなだけ好き勝手にセックスできるのによ。何が楽しいん?」
「可能性が周りに満ちている時に、それをやり過ごして通りすぎるということは大変にむずかしいことなんだ」
ダンス禁止、と書かれた張り紙を背景に踊る女の子たちを眺めながら、僕は答えた。
今日もこの街のどこかに、綺麗なゴリラはいるらしい。
僕は彼に会いに行くことにした。
綺麗なゴリラは、
原子またはIntel社製のスマートフォン向けCPUを意味する名前を持つ、この街のクラブにいた。
「Edさん!今日アトムは男祭りです!出ましょう」
ジェラと名乗る綺麗なゴリラは、ガンジーと名乗る青年と一緒にいた。
彼もまた、夜な夜なガールハントに繰り出しているらしい。
ガンジーに連れられて英国風パブに向かう道すがら、彼は言う。
「女を落とす秘訣はいたってシンプル。女に強要しないことと、女の言うことには従わないことだけだ」
「つまり?」
「非暴力・不服従。女王陛下だってファックしてみせるぜ」
ユニオンジャックが掲げられた店内で、ガンジーが女の子を呼び止める。
一言二言と会話を交わすと、ガンジーは彼女の背中に手を回し、抱き寄せる。
嬌声。彼には不可触民を見分ける能力があるようだった。
彼女は、触れてもいい人間。
彼女は小さな体をひらひらと漂わせながら、
男たちの間をクリケットのボールのように飛び交う。
その向こう側から、一人の女性がこちらを見ていた。
彼女の視線が捉えているのは、綺麗なゴリラだ。
綺麗なゴリラには、僕たちがいつの間にか失ってしまったものがある。
それは野蛮な美、独裁的な本能、傲慢な高貴。
満たされることに対して貪欲な女性たちは、彼のそういった素質にすぐに気づく。
そして、どういう視線を向ければ、彼がその欲望を満たしてくれるのかも知っている。
だが、綺麗なゴリラは彼女を一瞥すると直ぐに目をそらし、別の女の子のグループへ近づいて行った。
「この街では、夜の住人は全員でババ抜きをしてるようなもんだ」
綺麗なゴリラは言う。
「なくしちゃったカードもずいぶんあるみたいだけど」
そう、彼女もまたババ抜きのプレイヤーに過ぎない。
彼女は綺麗なゴリラをすぐにあきらめ、
近くで白人の膝に座っていた友人に声をかけると、
そのまま店外に出ていった。
ガンジーはクリケットの輪を抜け出し、店で一番の美女とダーツに興じている。
彼女は男にしなだれかかり、罵倒し、意味ありげに微笑み、酒をせがみ、頬を叩き、また別の男の元へ歩み寄る。
「非暴力、不服従だよ」
ガンジーが綺麗な歯をむき出しにして笑う。
綺麗なゴリラが肩をすくめる。
「いつの間にかこの部屋はずいぶん小さくなっちゃったな。今は何時なんだ?ウサギちゃんを探しに行こう」
僕らが背を向けても、奇妙なティーパーティは続く。
「何でもない日、万歳」
深夜2時。
店の出入り口付近では行き場のない男女が騒々しく戯れているが、街に人通りは少ない。
地下鉄が終わり、国鉄が終わり、街の血液の流れが止まる。
赤々としていた人の流れも止まり、鈍く黒ずんでいき、やがて固まる。
「ストりましょう。空を見上げて女の子が落ちてくるのを待っているなんて、そんなのは田舎者。俗物の世界だ」
綺麗なゴリラはそう言うと、背筋を伸ばしてあたりを見渡し、すぐに歩き出した。
向かう先には、スミノフ・アイスを片手に駅へ向かう二人組の女の子がいる。
彼の独裁的な本能はためらわない。
僕は綺麗なゴリラを追って、
背の低い、リスのような顔をした方に声をかけた。
「それ一口ちょうだい」
彼女は無言でスミノフ・アイスを差し出す。
「私たちこれから六本木に行くの」
「そうなんだ。なんか知り合いのイベントでもあるの?」
「ううん。ただクラブに行こうと思って」
彼女たちは退屈していた。夜の空気に喘いでいた。
「好きになる人は、綺麗なゴリラが多いかな。岡田准一くんみたいな」
僕はおどけてドラミングをしてみせる。
背の高い、キツネのような目をした女が笑う。
ババ抜きが終わるときというのはこういうものだ。
誰かの手札がそろったら、最後の1枚は自然と揃う。
夜は長く、誰かがババを引くまでゲームは続く。
綺麗なゴリラがあくびをした。
彼にとって、勝負の見えたゲームほど退屈なモノはないのだろう。
僕らはゲームの商品を受け取りに、カラオケボックスへと向かった。
敢えて、僕はリスと、綺麗なゴリラはキツネと話し続ける。
なぜかって?
彼女たちにとっても、勝負の見えたゲームほど退屈なものはないからだ。
そして、退屈なゲームの相手をしてくれるほど、彼女たちの春は長くない。
僕たちは、エキサイティングなゲームがまだ続いているように演じなければならない。
だが、傲慢で気高い綺麗なゴリラは、誰よりも退屈を嫌う。
カラオケボックスに到着すると、彼は倒れこむように眠り始めてしまった。
カラオケの別室に綺麗なゴリラを残し、僕はリスに告げる。
「彼のところに行ってあげなよ」
神々が沈黙した今、彼女たちを動かすのはラジオ・パーソナリティか僕の声だ。
ここに来るまでの道のりで、僕の声は彼女の思考となり、
夜の混沌と死すべき人間の本能が彼女の中でダンスを始めている。
彼女の声が、彼女の両親の声となり、彼女が恋した男たちの声となり、百年前の小説家の声となり、雑誌編集者の声となり、次第に彼女の語る物語は輪郭を失っていく。
僕の声はコロスとなり、彼女を綺麗なゴリラのもとへといざなう。
ディオニソスへの捧げものは、ゆっくりと部屋を出ていった。
キツネが薄笑いを浮かべる。
僕は確信した。
彼女は僕と同じように、禁断の果実を食べている。
そして、裸のままで彷徨っていられるリスや綺麗なゴリラに嫉妬している。
どうやらイカサマをする必要はなさそうだ。
僕は二つに割れた舌を出してみせた。
彼女がリスとの友情を語り始める。
僕が舌を出すたびに、その言葉は知的で辛辣なものに変わっていく。
それはまるで、ボールからナイフへ、ナイフから手斧へと、次々に道具を変えていくジャグラーのように。
彼女もどうやら、僕とカードが揃ったことを自覚してくれたらしい。
僕は言葉の隙間に差し込んでいた舌を、彼女の唇の間に差し込もうとする。
彼女の割れた舌は、一瞬だけ僕の舌に絡まり、すぐに離れた。
「会ってすぐの人とはしないの」
やれやれ。羞恥を知った女は時間がかかる。
僕はいったん距離を取り、また少しずつにじり寄る。
指先、肩、頭、腰、脚。
触れられる部分を増やしては減らし、を繰り返していると、
突然そこに綺麗なゴリラが現れた。
「寝てたら女の子が来てくれた!Edさん、僕もう即ったんで、くるくるしましょう」
蛇だった女がキツネの顔にもどる。
僕は綺麗なゴリラへの羨望と嫉妬をかかえながら、もう一つの部屋に向かった。
扉を開けると、放心していたリスが驚き、必死に表情を繕って言った。
「なんか歌ってよ」
「歌わないよ」
「何それ。歌いに来たんでしょう?」
「リスだっていままで歌ってなかったでしょ?」
「ずっと歌ってたわよ」
どうやら彼女も羞恥を知り、嘘をつくこともできてしまうみたいだ。
結局、僕らは皆、綺麗なゴリラに憧れ、
彼のようになりたいと星空に手を伸ばしているだけの存在にすぎない。
僕はおもむろに彼女のすぐそばに座り、
強引に顔をこちらに向けさせた。
「ダメよ。だってあなたは綺麗なゴリラじゃないでしょう?」
彼女の言う通りだ。
だけど僕たちは、宵闇に紛れて綺麗なゴリラに擬態することでしか、
生きる喜びを取り戻すことができない。
僕は姿勢を正し、声のトーンとスピードを下げ、
傲慢な本能に似せた光を視線に宿らせて言った。
「僕だって綺麗なゴリラだよ」
唇と唇が触れ合う。彼女は僕の2枚に割れた舌を受け入れる。
腰に手を回し、抱き寄せる。乳房に触れる。
靴の裏で、綺麗なゴリラが使ったコンドームが小さな音を立てた。
「ごめん。ちょっとトイレだけ行かせて」
リスが席を立った。
そして、二度ともどってはこなかった。
僕の体毛はぬらぬらと光るうろこに、瞳はガブリエル・オロスコのシトロエンに、体温は冷たい変温動物のそれに戻っていった。
二度のセックスの期待を裏切られ、無力感に全身を支配され、カラオケボックスの床をうねうねと這い回る。
コンドームの中の綺麗なゴリラの遺伝子たちと目が合った。
俗物。俗物。俗物。
彼らのささやきが、消毒済みのマイクを通して増幅され、エコーがかかる。
僕はコンドームを摘み上げ、ゴミ箱に投げ入れた。
下腹部に自分のカウパー腺液を冷たく感じる。
こんな時、綺麗なゴリラならどうする?
彼ならためらわない。恥じない。
ただ欲望を満たすために行動する。
僕はまた擬態を施すと、キツネと綺麗なゴリラがセックスをしているであろう部屋に向かった。
そこにいたのは、石像のような寝顔で横たわる綺麗なゴリラと、部屋の隅でうねる小さな蛇だった。
結論から言えば、僕はババ抜きに勝利した。
“Old Maid”がクイーンであるように、強く美しいカードが相手を見つけられるとは限らない。
小さな数字札も、同じ札を見つけてゲームから去っていく。
キツネの顔をした蛇は、綺麗なゴリラの独裁的な本能 -この時は、眠りたいという本能- に打ちのめされ、ペアの相手が僕だという事に諦めがついたのだ。
彼女は「セックスしないなら」というごくごく形式的な条件を提示し、
ラブホテルに移動しようという提案を受け入れた。
そして、僕らはベッドに倒れこむと、当然のように唇を合わせ、舌を絡ませ、セックスをした。
僕よりも一回り以上若い彼女は、細く長く温かい手足をもち、
柔らかな陰毛の奥には、小さなヴァギナの他にシワひとつなかった。
「君はなぜ、綺麗なゴリラを探してさまよっているの?」
一度目の交合を終え、僕は彼女に尋ねた。
僕らは長い長い夜の終わりに、ようやく獣たちの楽園に戻ることができたのだ。
「わからないわ」
僕の腕の中で彼女が答える。
「半年前に田舎から上京して、友達もそんなにいなかったのね。ただ、自分が育った場所よりもキラキラした場所があって、そこにいけばもっと素敵な事があるんじゃないかな、と思って」
彼女が目と顔の角度だけでキスをねだる。僕らにはこういうふうに意思を伝える能力があるのに、なぜ心を言葉で覆ってしまっているのだろう。
「でも、本当は全然素敵なことなんてないの。ただ、キラキラした服を着て楽しそうに振る舞っていれば、素敵な毎日を過ごしているように見えるでしょう?あのころの私にも、これからの私にも」
綺麗なゴリラの笑顔を思い出す。彼のような存在から発せられる強い光がこの街に反射して、僕らはその散り散りの小さな光を追いかけるのだ。
そろそろDJたちも空爆を終える。
この戦場に朝が来る。砂嵐の時間は過ぎ去り、心地よいホワイトノイズは天気と株価と事件の情報を伝えだす。
彼女は布団に潜り込むと、僕のペニスに口づけをし、ゆっくりと咥えこんだ。
痺れるような快感が走り、心臓のあたりがすこし締め付けられるような気がした。
彼女の髪を撫で、乳房に触れ、尻に手を伸ばす。彼女のヴァギナはあたたかく濡れて僕を求めていた。
僕は彼女の背中を優しくさするように撫でながら、ペニスに意識を集中する。
勃たない。
やれやれ、またインポか、と僕は思った。
僕はシャツに腕を通すと、連絡先を交換したいという彼女の視線に気づかないふりをして、ホテルを後にした。
手術台で麻酔をかけられた患者のように、空に朝焼けが広がり、
足元ではババ抜きのプレイヤーたちが散らかしたカードが腐臭を放つ。
交差点の向こうで、ひとり、またひとりと夜の住人達が駅の改札に吸い込まれていく。
数時間後にはこの交差点も、キラキラした街の退屈な日常に覆いつくされる。
ポケットから定期券を取り出し、改札口を通る。
始発列車の窓から見る街は、日の光を浴びて輝いて見えた。
それはまるで、無数の小さな蛇が体を温める場所を探し求めて蠢いているように。
頬にチクリとした痛みを感じ、鱗が一枚、僕の顔から剥がれ落ちた。
僕は足でそれを払いのけ、目を閉じる。
睡魔が痛みを麻痺させていく。
そのまま僕は、心地よい振動に身を任せ、まどろみの中へと落ちていった。
僕はまだ綺麗なゴリラを信じている。
年を追うごとに僕たちの前からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた日々を。
それはあのとき僕たちの手からすり抜けていった。
でもまだ大丈夫。
明日はもっと速く走ろう。
両腕をもっと先まで差し出そう。……そうすればある晴れた朝に――
だからこそ僕たちは、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。